自民党 衆議院議員 梶山ひろし

日本経済再生のシナリオ……小渕政権「経済政策」徹底批判

2000年(平成12年)「週刊文春」1月20日号に掲載。

「辻褄の合わない小渕政権の経済政策」

いま現在、小渕政権が実施している経済政策は、私にはどう考えても辻褄が合わない。

小渕政権発足以来、来年度(二〇〇〇年度)分を合わせて、実に八十兆円以上にのぼる国債を発行して、景気対策をやっているにもかかわらず、本当の意味で景気が回復したとは到底いえない状況です。日本銀行や経済企画庁が「景気回復の兆しが見えた」といった趣旨の発表を繰り返していますが、彼らの言っていることが本当なら、とうの昔に景気が良くなっているはずです。 文字どおり、国の財政を傾け、子々孫々にわたって続く借金を重ねてまで、経済対策を実施しているのに、どうして、日本経済は不況から脱出できないのか。 答えは簡単明瞭で、小渕政権が日本経済の病状を誤診し、その治療法(経済対策)を根本的に間違えているからです。のみならず、二十一世紀の日本経済にとって、「健康体」といかなるものなのか、という肝心のビジョンが小渕総理には欠如している。これでは、いまや重篤な状態にある日本経済が回復に向かうはずがありません。 確かに小渕総理は、戦後日本史上例のない金融危機の中で政権の座に就き、大変な苦労されてるということはよく分かります。「二兎を追うものは一兎も得ず」というわけで、財政の破綻には目をつぶっても、目先の景気に全力を投入しているんだ、という気持ちが私は「世界一の借金王」という自虐的な言葉にもなっているのでしょう。 しかし、それを、総理の肝煎りで発足した「経済戦略会議」が、レーガノミクスと並べて「オブチノミクス」と称するよう提案した、などという話を聞くと、聞き捨てならなくなる。この期に及んで、いったい何を勘違いしているのだという気がしてくるのです。 では、小渕政権の経済政策の何が違うのか。 先ほどの「治療法」でいえば、金融再生、公共事業から中小企業対策、ベンチャー育成まで、すべての施策があまりに「付け焼き刃」的で、患部を根本的に治療してるのではなく、上から絆創膏(ばんそうこう)を貼っているにすぎないということです。しかも莫大な財政出動によって、徒に絆創膏の大きさだけを大きくしている。 たとえば小渕総理は、二十一世紀の産業を育てるため、環境、情報通信、高齢化、バイオテクノロジーを対象とした総額二千五百億円の「ミレニアム・プロジェクト」を来年度予算で実行しようとしています。情報通信、バイオなどに重点を絞ることは私もこれまで提案してきましたし、大枠で異論を唱える向きはないと思います。 ところが、こうした、せっかくの優れた政策のメッセージも、他の方向を向いている政策とごちゃ混ぜにされているため、明確な方向性を国民に指し示すことができていない。結果、政策全体は曖昧模糊としたヌエのようなものになってしまっているのです。 こういう政策のパッケージはしばしば「丸呑み」手法といわれますが、これは「病気」だと分かって風邪薬からガンの特効薬まで、副作用も考えずに何でも投与するのと同じことです。あるいは橋本内閣末期に指摘された「左足でブレーキを踏みながら、右足でアクセルを踏む」手法を極めているといっていいかもしれません。 そしてこうした政治手法の根底にあるビジョンの欠如は深刻な問題で、今の膨大な赤字国債の発行からは「とにかく将来はどうでもいいから、目先の景気のために金を出す」というメッセージしか伝わりません。国民が一番、不安に思っているのは、その「将来」のことであって、老後の生活がどうなるかわからないし、子供や孫は今の生活程度を維持できないかもしれないと勘づいているからこそ、消費よりも貯蓄を優先するのです。 国と地方を合わせた公債残高六百兆円以上という借金が、ちょっとやそっとの目先の景気が上向いただけでは返せない金額であることは、だれが考えても分かります。つまり目下の不況を招いている個人消費の冷え込みは、政治がしっかりとしたメッセージを国民に伝えていないことにも大きな原因があるのです。 そうであれば、政治のあるべきメッセージは、将来、財政を必ず健全化しなければならないという道筋を明らかにしたうえで、日本経済の構造的な患部にメスを入れることです。 今はまさに「国債バブル」のようなもので、一般家庭にたとえれば、生活費の四割以上を借金に頼っている。太平洋戦争末期でも、公債依存度は三八・五%(平成十一年度は四十三・四%)だったのですから、まさに史上最悪です。国債は来年度(二〇〇〇年度)、借款債を合わせると八〇兆円以上、一般会計の総額を上回る額を発行します。それでも、いまこの段階では長期金利は上昇してこない。 なぜかといえば、生保をはじめとした機関投資家が争って国債を購入するからです。国際には為替リスクもなく、何よりも日本という国家がバックに控える最も安全な投資先と映るからです。 国には商工ローンのような借金取りも来ないわけですから、当面はだれも痛みを感じないし、自分たちが不健全な生活をしている、という実感すらなくなる。政治家も国民も典型的なモラルハザード状態に陥っています。やがて、この借金を返さなければならない段になっても、今の調子では返すアテもないのですから、インフレを期待する人も増えるでしょう。しかしその時、一番苦しむのは、この低金利時代にひたすら消費を抑え、将来に向けて貯蓄に励んでいる庶民に他なりません。 それゆえ政治家は、赤字国債を当然のように発行するのではなく、罪悪感をもって国民に説明していかなければならない。私が、どんなに無理筋といわれようが、償還の当てのある国債の発行を訴え続けてきているのも、そのためです。私はこの稿でも、そのいくつかのアイデアを提示してみるつもりですが、各論となると、必ず反対論が巻き起こります。それでもいいのです。要は、国の借金といえども、借金を借金で返すのではなく、ちゃんとした「身銭」によって返済するのだという原理原則を、改めて明確にすることです。そのうえで、問題なのは借金したそのカネの使い途です。

過ちの連鎖から抜け出せ!

まず患部を手術する医療代、これと並行して次の活力を生み出すための投資、さらにそのためには、どんな健康体にするのかという筋の通ったビジョン--この三つが三位一体となった見取り図を手にしてこそ、初めて日本経済の再生に踏み出すことができる。 経済の世界では、一つ一つの行動は正しくとも、トータルしてみれば誤りになる「合成の誤謬(ごびゅう)」というものがあり得ます。しかし、今の小渕政権はもっと原始的な誤り、すなわち誤りが重なって、もっと大きな誤りとなる「誤謬の合成」を繰り返していると私には思えます。もういい加減で、そうした過ちの連鎖から抜け出さねば、日本経済は本当に崩壊してしまうのです。

「この二年間は何だったのか?」

私は九十七年の十一月、本誌に「わが日本経済再生のシナリオ」を発表いたしました。ちょうど、北海道拓殖銀行(拓銀)が経営破綻に陥り、続いて山一証券が倒産した直後です。 簡単に、その論文の中身をおさらいしてみたいと思います。当時、私は、金融、なかんずくその中核をなす「銀行」の危機に的を絞って問題を提起しました。 日本経済を人間の身体に見立てれば、企業活動(四肢)を支えるべく血液を送り出す役目の心臓部分(金融システム)が機能不全に陥っている。それゆえ、心臓の再生、すなわち「金融再生(ルネサンス)」と考えたわけです。 そして、当時の地価から大雑把に推定して、少なくとも金融機関が抱える不良債権は百二十兆円あまりと試算しました(当時、大蔵省の統計では、全金融機関の公表不良債権額はわずか二十八兆円でした)。その傷んだ銀行を再生するため、一、銀行の経営状況を的確に情報開示(ディスクロージャー)する。二、経営者の経営責任を明確にする。大蔵省を中心とする行政責任をはっきりさせる。三、銀行の自己資本拡充のために、公的資金で資本注入を行う--べきだと提言しました。 同時に、直ちに「経済構造改革」を断行すべきとし、その手始めとして四つの産業政策の速やかなる実行を訴えました。 第一には「ビッグバン」にともない、資金繰りが厳しくなる中小企業に対する救済措置。第二に、法人課税の税率見直し(五〇%近くから四〇%への引き下げ)。三番目は、公共事業の見直しとして、民間資金を呼び込むための PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)方式の導入。第四には、金融ルネサンスと構造改革推進のための財源として、償還の当てがある「改革・発展国債」十兆円の発行。 さらに、「産業立国への道」として、これから先の日本の新たな「喰い扶持(ぶち)」を見つける努力を始める。そのための技術開発とベンチャー企業の育成を行うべきである--およそ以上が、当時、発表した経済再生プランの骨子です。 さらに、翌年七月の自民党総裁選では、候補者として、この「日本経済再生のシナリオ」をさらに発展させ、大規模かつ強力な日本経済再生策を提案しました。 当時は金融システム危機の真っ直中であり、私は、総裁に選ばれたなら、即座に銀行再生のハードランディングを実行しようと企図していました。まず三年間の「日本経済緊急事態宣言」を行い、前半一年の間に一気呵成に金融システム立て直しを断行する。荒療治は百も承知ですが、半端な投薬治療をやめて、思い切って外科的手術に踏みきる。そのプロセスで、大手銀行を五、六行に再編していく腹づもりでした。 それから、すでに一年半の時が経過しました。 二年前には、銀行再編などと口にすると非現実的な夢物語のように批判されましたが、現に、大手銀行も合併や経営統合を重ね、この二年で十行あった都市銀行は、五行に減ってしまうことになりました(予定)。 当時、金融界では「梶山の言う通りにすれば日本は破滅する」、「世界恐慌の引き金になる」とまで言われたものでした。現在の結果は、市場原理に従った自然の姿だという見方もあるでしょう。しかし、まずは政治の意思を示すことが何より大切であることを、日本の金融再編が示していると思うのは私の独り善(よ)がりな考えではないはずです。 この間、政府はさまざまな経済対策を実施してきました。二十二兆円に上る公共事業投資、総額十兆円近い所得税・法人税減税、さらに住宅減税、中小企業向けの二十兆円の信用保証枠の拡大。産業競争力会議の設置とサプライサイド(供給側)改革、そして、六十兆円規模の「金融再生トータルプラン」、あげくは七千億円の商品券の支給などです。 こうした施策の中には、私が提案したいくつかを実現してくれたものもあります。私のプランを基礎にして、より拡大したものもあります。小渕政権になり、正直言って、よくぞ、これほど財政出動したものだというのが、実感です。 しかし、これら一連の政策は、根本的な部分で私の再生シナリオとは違っている。似て非なるものになってしまっているのです。 最大の相違点は、抜本的な「経済構造改革」がすっぽり抜け落ちてしまっていることです。それと同時に、償還の当てのない国債の増発を続け、見せかけの国内総生産(GDP)をかさ上げすることに汲々としています。 経済再生という言葉は美しくても、財政赤字という大問題がある以上、財政出動を無限に続けることはできません。そこで政府は、「財政依存型」の経済運営は来年度予算が最後、これを民需に切り替えていくと発言しています。

「経済構造改革」を断行する

しかし問題なのは、どうやれば、財政依存型から民需に切り替えていけるのか、という点です。この肝心要の方策がなければ、いくら「財政依存型」からの転換を謳(うた)っても、この景気の現状では掛け声倒れにならざるを得ない。 現在のプラス成長を支えているのは、やればやるだけ数字は上がる「公共事業効果」以外の何物でもありません。とすれば、公共投資を削減したとたんにマイナス成長に逆戻りすることは目に見えています。 つまり、今の状態で民事に切り替えてしまえば、「ポスト財政依存型」のシナリオがないままに、財政出動という止血剤を止めざるを得ないのです。それを承知で、小渕政権は民需転換だといって言っている。こんな無責任な言い方が、果たして国民に通用するでしょうか。 「競争力」だとか、「自助努力」だとか口では言ってみても、日本経済の実相はすべてが国任せで、政府の信用であらゆる危機をカバーしているという状態です。しかも、それを国は助長し、「大丈夫だ。日本経済には薄日が差している」と言い張ってきました。 ここで忘れてならないのは、できうる限りの財政出動やり、ゼロ金利政策を続けたにもかかわらず、「もはやバブル経済には戻れない」ということです。ここ数年の経済運営の失敗で、この教訓だけはだれの目にもはっきりしたのではないでしょうか。 そうだとすれば、政府がいうように「もはや巨額の公共投資が続けられないから、民間需要でやってくれ」と言っても、果たしてスムーズに官から民への転換は進むのか。現実には未だに道筋はつけられていません。 要するに、目下のような絆創膏貼りの政策は、すでに手詰まりになっているのです。そしてこのままでは、政府が手を引いたその瞬間に絆創膏の薬効は失われ、いまだ治りきっていない患部の傷がいっぺんに外気にさらされてしまう。日本経済は失速するでしょう。

こうなると、再び経済政策の大転換を私は訴えざるを得ません。 「経済構造改革」を断行するのです。 言葉を変えれば、「この国のかたち」、産業の在り方そのものを、いま一度を組み直すのです。国の組織、企業の仕組み、システムの運営、人材あるいは資源の配分を根本的に見直していく。この国のかたちを、時代に合った、少なくともこの先五十年間くらいはもつような「あたらしい、国のかたち」に造りなおさなければならない。そのための強い意志が、政府に、そして何より国民になければなりません。 いまの小渕政権、あるいは霞が関の官僚たちに最も欠如しているのは、必要不可欠な、この変革への意思です。 「あたらしい、国のかたち」などと言えば、言葉の上で甚だ華麗ではありますが、その実態は、既存の「護送船団的な国家運営体制」を打ち壊すということです。 「体制一新」ですから、これまでの体制を守ってきた人々の手から従来の権限や既得権を奪うことになります。さらに体制を壊すことすら至難であるのに、壊してから後も、新システムが組織として立ち上がり、きちんと機能するまでは、筆舌に尽くしがたい「産みの苦しみ」が待ち受けているはずです。 いま、「経済構造改革」を推し進めるとすれば、おそらく大量の失業者が一時的に発生し、景気の落ち込みも一段と厳しくなる可能性も高いと思います。にもかかわらず、なぜ、こんな険しい道を選択しなければならないのか。 その理由を、ここ数年の経済状況を振り返りながら、考えていきたいと思います。

金融システム危機は去っていない 「不良債権問題」から「不良企業問題」へ

金融の問題が難しいのは、目に見えないことです。ですから、小渕政権が「六十兆円構想」という大盤振る舞いで、金融システム回復に当たるといえば、なんとなく「立ち直った」という感じを国民に与えていると思います。しかし、銀行の実体は、今も何ら危機を脱してはいないのです。 要は、簡単な算術の問題です。 二年前の試算では、金融機関の不良債権の総額は百二十兆円ほどでした。現在、政府が進めている「七十兆円構想」では、銀行の資本注入枠である「金融機能早期健全化勘定」に二十五兆円が準備されています。この二十五兆円から、現在、大手行に対して、資本注入を行っていますが、その総計は、九兆二千億円(九十八年三月と九十九年三月の二回の合計)。九兆円と聞くとなるほど巨額ですが、総額百二十兆円に達する金融システム全体のダメージからすると、実はぜんぜん足りないことは明らかです。 思い起こせばこの三年間で、都市銀行一行、長期信用銀行が二行、地方銀行十二行、信用組合・信用金庫が七十五行と凄まじい勢いで、金融機関がつぶれました。 たとえば、拓銀を例にあげましょう。 総資産七兆円の、北海道を拠点とする都市銀行でしたが、九十七年に経営破たん。当時は、今のような経営健全化の仕組みがありませんでしたから、破綻処理が行われました。処理が終わったところで、債務超過は一兆一千八百億円。資本の食いつぶしを考えると、結果的に拓銀は、二兆三千億円以上の損失を出してしまったわけです。国民から預かった大切なお金の三分の一をなくしたことになります。 もう一つ、日本長期信用銀行(長銀)の例を考えましょう。 長銀の破綻の際も、最終的には四兆五千億円以上の公的資金が投入されました。しかも、いまだに、長銀が抱える問題企業があり、これらの企業への貸出から発生する不良債権については、新たに税金で穴埋めする可能性も高いといわれています。 つまり、このたった二つの銀行破綻だけで六兆八千億円もの巨額の税金が使われたのです。この実例と、先程の不良債権の見込みからいって、政府が実施した「資本注入」で十分なのかどうかは、一目瞭然です。私が小渕政権の経済政策が全く辻褄が合わないと言っている意味が分かると思います。 不良債権は「生き物」であるということも指摘しておかねばなりません。今日の時点で一兆円だった不良債権は、地価が下がれば明日は二兆円になっているかもしれないのです。 バブル経済が誕生し、崩壊したのは、「地価は上がり続ける」という誤った予測と、「いつか地価は下げ止まり、上昇に転じる」という根拠のない楽観論に政治家も官も民も、支配されていたからにほかなりません。 だからこそ、その予測と楽観論が幻にすぎないことがはっきりした段階で、政府は決然として思い切った公的資金の投入を決断すべきでした。九八年三月の注入(二十一行横並びに総額一兆八千億円を注入)が、あまりに中途半端なものであったことは、返す返す悔やまれてなりません。 確かに、銀行も必死に不良債権処理を進めてきました。この十年ほどで、五十八兆円以上処理したのではないでしょうか。 それでも、総枠ではまだまだ不良債権が残っているのです。あるシンクタンクの調査では、いまだに大手行だけでも、少なくとも二十兆円、最悪三十兆円はあるといわれています。地方銀行を含めると、この先五年間で、なんと七十五兆円から百兆円もの不良債権を処理しなければなりません。 そのうちの欠損分(丸焦げで返ってこないカネ)の自己資本を補充するだけで十五兆円から二十数兆円が必要で、さらに、銀行の債務超過の補填に必要な分が、二十兆円から二十五兆円。併せると、三十五兆円から五十兆円もの資金が、今もって、金融システム再生には必要なはずです。 こうしてみてくると、九兆円強を注入してみたところで、とても足りないことは歴然としています。なのになぜ、こんな絆創膏貼りばかりしているのか。 それは、だれも、経営責任も行政責任も取らないからです。銀行経営者が責任を取らないで済む範囲内で、ことを納めようとするから、問題がどんどん先送りされる。 九十九年三月の資本注入の際に、顧客から預かった貴重な預金をバブルで数兆円単位でスッた銀行頭取がみんな頭を丸めて辞めていれば、銀行再生に必要な額の資本注入ができたはずです。 それをしないで、普通株でなく、優先株(議決権のない代わりに配当を優先される株式)と劣後債による注入しか行わないために、必要十分な資本注入ができなかったのです。なんという愚かさでしょうか。 バブル崩壊の波は、戦後これまで、われわれが経験したことのない「百兆円のスケール」で、日本経済に襲いかかっているのです。 この実感が、政治家にも官僚にも希薄だし、なにより経営者は知っていても己れの保身に走って、それを認めようとしない。

「不良企業」という五十兆円爆弾

二年前に私が、一、経営内容の情報開示、二、経営責任の明確化、が何より大切だと主張したことの意味が、今なら、お分かりいただけるはずです。 結局は、難題の先送りでした。 問題を先送りすると、新たに別の問題を生じることはままあることです。しかも、次の問題は、前の問題より、さらに厄介になっているというのが世の常です。 従って、ペイオフ解禁も怖くてできない。銀行の不良債権問題を先送りした結果、何が起きているのか。 ちょっと言葉がこなれませんが、新たに「(経営)不良企業問題」がクローズアップされてきたのです。 戦後の日本経済は、消費拡大-設備投資拡大-賃金上昇-消費拡大という循環を繰り返してきました。この良質の循環が「好景気」だったわけです。不況といっても、それはこの循環が多少、スピードが鈍っていた程度でした。ところが、この「右肩上がり経済」の良質な循環が、金融システム危機とバブル経済崩壊による不況のダブルパンチによってストップしてしまった。ストップしてしまっただけでなく、逆回りし始めている。 消費冷え込み-設備投資縮小-賃金降下-消費縮小と、好景気とは逆の循環に日本経済は入ってしまったのです。つまり「デフレ経済」の出現です。 二年前でしたら、「金融システム」さえ復興できれば、なんとか、この悪循環を止めることができたかもしれませんが、この間、さらに症状は悪化してしまいました。 それは、破綻銀行の経営内容を見れば明らかです。 経営破綻した銀行は、それまで公表してきたものの数倍もの不良債権を持っていました。むろん地価下落と株安による含み損も大きいのですが、それとは別に「不良企業」という大変な問題が爆弾になりつつあります。 大手銀行は、必ず建設・不動産・流通・ノンバンクといった経営危機に陥っている企業をメーンバンクとして支えています。 デフレ経済のもと、こうした不良企業がどこまで持ちこたえることができるのか。 どのシンクタンクの調査でも、需給ギャップは、GDP五百兆円のうち、およそ一〇%から一五%はあると指摘されています。 経企庁の資料によれば、製造業だけで五十兆円もの余剰設備があり、その縮小(リストラ)をしなければならないということです。これは、不良債権問題に匹敵する、いや、国民生活に直結するという意味ではさらに大きな問題です。そうなると、銀行自身の不良債権処理の問題だけではなく、大手企業の経営破綻も、もはや時間の問題として視野に入れておく必要があるのです。 こういうデータを読み込み、大所高所から、日本経済を眺めてみるならば、私の主張が決して危機を煽るものではなく、危機の本質を見極めようとしているものだということが、わかると思います。 もういいかげんに、日本経済が直面する危機のスケールがいかに大きいか、危機の本質について、きちんとわれわれは認識しなければなりません。

迫り来る「後門の狼」-財政破綻の恐怖

日本経済は、依然として健全化していない。不良債権百兆円の重圧による金融システム不安と、需給ギャップから来る五十兆円の収縮圧力の板挟みになっています。 小渕政権の経済政策は、この重圧に対して一定の効果を上げているように見えます。しかし実際には、この圧力を「財政出動」という形だけで押さえているにすぎません。この三年あまりで、ざっと百兆円近いスケールで投入しているのですから、こんなものだれがやっても一定の効果があるのは当たり前です。 だが、そうした財政出動と同時に「経済構造改革」という肝心の政策に、ほとんど手をつけていないのですから、先に挙げた「不良企業」の存在なども、まったく片付いていない。問題自体は温存され、百兆円の税金は、むしろ旧来の産業構造の延命のために、無駄に費やされているのです。しかもこの巨額の財政出動自体にも、大きな問題がある。 これまでの「財政出動」が、いかに巨額であるかといえば、九八年度から二〇〇〇年度の三年間で、約百兆円の国債を発行するのです。八九年度から九六年度までの八年間の総額が百五兆円ですから、ざっと三倍のペースで発行量を増やしてしていることになります。国債発行残高は、今年度末で、三百二十七兆円。今年度の補正(七兆円)を合わせると、三百三十兆円を突破します。来年度(二〇〇〇年度)予算も、今年度と同じ規模の三十兆円の国債発行を見込んでいますから、国債の発行残高は一気に三百六十兆円となり、二〇〇一年度には四百兆円に達するでしょう。 この加速度的な財政悪化は、どれほどの負担を日本経済に強いるのでしょうか。 別の尺度で見ても、この二年間で、対GDP比の国債発行残高が二割以上も増え、実に七割を超えてしまいました。 この数字は、先進国中最悪といわれたイタリアの赤字率を一気に凌駕し、債務国として有名なブラジルの国家財政と同じほどまでに、日本の財政が悪化したことを意味します。日本経済に開いた二つの大穴(金融システムと、デフレによる需給ギャップの拡大)を、借金(国債発行)によってひたすら穴埋めしているのが、今の政府のやり方なのです。 こんな施策で、日本経済は本当に立ち直れるのか。 こうした貼り付け膏薬的な施策を続ける限り、政府は景気回復まで、どこまでも借金(財政出動)を重ねていくよりありません。しかも一方で、それがさすがにもう無理であることは、宮沢大蔵大臣も認めておられる。 そしてその実、九〇年のバブル崩壊以降、日本経済は一貫して悪くなっている。良くなっているのは、政府の発表している統計数値だけという有り様です。 たしかに、こうした「財政出動」は、戦後は、最も効果のある経済政策ではありました。しかし、今はこの「公共事業」のクスリがすぐには効かなくなっているのです。バブルが破裂したといっても、この間、GDPが一貫して増えていました。平成の十年間だけで百兆円、増えたのです。それが昨年度は初めてマイナスに転じた。公共投資の効果がついに限界にきたことは明らかなのです。 であるならば、政治家と官僚は、公共投資を増やすだけで景気が回復しないことに、もういいかげんで気付くべきです。政府が借金(国債発行)を半永久的に続けることなど土台無理に決まっていますし、今や、その限界もはっきりと見えてきました。これ以上の国債発行は、市中の資金を吸い上げることだけでは処理できなくなります。金利の上昇局面は必ず、やってきます。 日本銀行は、九五年九月から超低金利政策をとり、九九年二月からは、いわゆる「ゼロ金利政策」を続けています。 金利がタダのですから、民間銀行は日銀から資金を借りれば借りるだけ儲けることができる。そういう状況にあるのに、再びバブルが起きないどころか、景気の明るさが戻ってこない。ひとつの理由は、そのカネが国債に向かっているからです。資金が同じところをぐるぐる回り、真に必要な民間セクターには十分な資金が供給されない。蛇が自分の尻尾を食べているようなものなのです。 金融のバルブを目いっぱい開けているのに、経済は上向かない。そしてこの異常事態がいつのまにか当たり前になってしまった。こんな恐ろしいことはありません。 エコノミストの人たちの一致した見方ですが、これ以上の金利上昇が起これば、資金がアメリカから日本にシフトし、「円高」がさらに加速するのは間違いない。今、一ドルはかろうじて一〇〇円台を維持していますが、これが一〇〇円を割込むようなことにでもなれば、景気の首を絞め上げることは間違いありません。かつての「円高不況」と異なり、バブル崩壊で傷ついている日本の輸出業界(鉄鋼、自動車、半導体、コンピューターなど)は、この円高で大きなダメージ負うことになるでしょう。 ただでさえ、全産業にわたって、企業が多すぎるのです。戦後の常識だった「いいものをより安く大量につくる」という「信仰」が、いま仇になってしまっているのです。 日本人の労働賃金の上昇によって「より安い」製品をつくるために企業は海外に生産拠点を移転し始め、結果として現在の日本には「大量につくる」生産設備が余ってしまっています。この過剰設備が、逆に現在の日本経済の首を絞め上げています。 実は、「護送船団方式」は銀行業界だけに限ったことではありませんでした。鉄鋼業界も自動車業界も電機業界も、役所の主導で、仲良く船団の中で、できるだけ企業を潰さない、共存共栄の態勢をとってきたのです。 そのしわ寄せが、金融システム崩壊とともに、一気に顕在化してきている。 もはや、待ったなしの状況なのです。 日本経済を本当に再起させるためには、企業の再編をうながす他はありません。将来的に生き残る力のある企業を活性化させ、そうでない企業は、残念ながら淘汰させていくしかない、と私は考えています。 それが、いまの日本経済に必要な真の「経済構造改革」なのです。 ところが、小渕政権がやっている施策は、当面の問題をできるだけ先送りし、痛みがある「構造改革」は避けて通るというものでしかない。銀行、生保をはじめ、ゼネコン、流通といった大手企業から中小企業まで、すべて予算(財政出動)をつけて、無駄に延命させてしまっている。 このままでは、日本経済が本当につぶれてしまうのではないか、そんな危機感が私の頭から離れないのです。

真の日本経済再生とは何か

では、われわれはいま何をなすべきなのか。 まずもう一度、白紙に戻す気持ちで、二十一世紀の日本という「国のかたち」を考えてみることです。 政府の言い分を聞くと、何やら「景気のよい日本」「右肩上がりの経済の再来」というのが、日本のあるべき姿のごとくで、私にはさっぱり肝心の全体像がつかめない。むろん、景気回復は重要なことですが、景気浮揚だけが自己目的化してしまっているのではないでしょうか。 戦後の日本は、まさしく廃虚の中からの出発でしたから、とにかく経済を豊かにすることが独立国家としての大前提でした。この経済発展一本やりの路線では、もはや日本はやってはいけない-それが今日における出発点です。 全体の見取り図がないから、とにかく何でもかんでも巨額の国債(借金)をつぎ込んで、場当たり的な対応に終始する。介護保険の見直しにしても、ペイオフ解禁の一年延長なども、その中身はともかく、決めたことをクルクル変えるのですから、国民のだれもが政治の意思決定を信じない。問題の先送りによって、政治の力がどんどん弱まり、政府がどんな政策を決めてもその効果が薄まるという悪循環に陥っているのです。 そもそも、いまのように誰が、どこでどのような目的で、何をしようとしているのかが見えてこない政治ではどうしようもありません。現在の積極財政とゼロ金利の組み合わせによる財政・金融のポリシーミックスは、いったいだれがどこで決定しているのか。 大蔵大臣か金融再生委員長か日銀総裁か、あるいは総理大臣なのか。国民にはそれが見えないのです。言い換えれば、最終責任者が誰なのかがはっきりしない。これでは政治とはいえません。この分かりにくさは、バブル経済草創期とまるで同じです。 こうした悪循環を断ち切るには、もはや国民が信頼できる政策のコア・センターを新たに作るしかない、と私は考えます。 まず、内閣に「日本経済再生本部」を設置し、すべての経済・金融にかかわる経済戦略を一本化することです。むろんこの本部メンバーには民間からも多いに人材を募ります。決して「新しい役所」などにはしない。そのうえで、内閣総理大臣が先頭に立って、経済「構造改革」を断行する決意を示す。 「経済構造改革」とは、すなわち規制緩和のことであり、民間活力を最大限伸ばしてやるということです。「小さな政府」を志向し、公共事業などを抜本的に見直すべきです。 同時に、これからの日本は、国際市場で「勝てる産業」を育てなければならない。たとえば、IT(情報技術)産業などは、飛躍的に伸びる可能性のある分野です。そうした産業に、民間企業が参入し、あらゆる資本、資源の投入がいつでも誰にでも可能な環境を整えていく。 既存のシステムをできるだけスムーズに解体する。具体的には、全産業にわたる「護送船団方式」をやめていくことです。 その際、二つの原則を持つべきです。第一には、国は資金負担を含め、あらゆる施策をバックアップするけれども、基本的には民間主導、自己責任の体制でやっていくのだという方向性を堅持すること。二番目は、そのための財源は、結果的に赤字公債に頼らざるを得ないとしても、極限までの償還の担保を追求し、国民の目に見える形で、赤字公債は大問題であるというメッセージを発し続けることです。 この二つの原則を確立したうえで、戦略上、最も愚劣な戦力の逐次投入をやめ、ここぞという分野に集中して徹底的に資金を投入していくべきです。 これまで小渕政権は百兆円もの経済対策を実施していますが、このままいけば、さらに百兆円やっても二百兆円あっても足らない。借金地獄です。私のシナリオが、この積極財政型の政策運営と根本的に違うのは、財政状況からいって、もはや次の一手が最後だという厳粛な事実を直視しているということです。日本の浮沈をかけた対策費として最大百兆円の範囲内で投資し、次代の日本経済の礎を築いていくことを目標としているのです。 しかし、この政策の実施はあくまで政治家主導でやらねばなりません。官ではなく民が主体となって、経済再生の道筋をつけるのです。民主導の「日本経済再生本部」があらゆる英知を集め、ここを拠点に、いかにすれば、日本経済の産業構造を変えられるか、その一点に絞って、戦略的、機動的な「投資」をしていくのです。 そのための財源をどうするのか。 いまの日本には、まだ「バブルの遺産」ともいうべき個人資産が一千三百兆円はあるといわれます。その巨額資産を流動化させて、できるだけ活用する仕組みをつくり、数十兆円単位で経済再生のための「投資」資金を捻出する。たとえ国債であっても、その流動化に資するものでなくてはなりません。

経済再生のための四プラン

たとえば、今後、五十年間で百二十兆円の相続税収入が予想されています。これを償還期限二十~三十年の無利子国債(相続税減免債)として活用できないか。 あるいは、地方税減免債(レビニュー・ボンド)というアイデアもあります。これはアメリカ各州で発行されているものですが、地方自治体が必要に応じて発行する減免債です。これまでの公共事業のような国のお仕着せではなく、各地方自治体が自らの必要に応じて、起債するものです。この減免債ならば、必要のない橋や道路ではなく、福祉施設や老人介護用の施設などに投資することができます。これからの新産業の有力な柱である、福祉、環境といった分野での民活にも、力を発揮できるはずです。 要は、政府のカネというものは、「赤字国債」という呪文を唱えれば出てくるものではないことを明確にした上で、集めた資金を国民の目に見える形で投入していくことです。 では、何に投資していくのか。ここは「日本経済再生本部」の面々のまさに知恵の出しところです。私は近いうちに、より詳細をまとめたものを発表する予定ですが、いま思いつく限り、私なりに四本柱を考えてみました。

一、新・金融再生プラン これまで中途半端な資本注入を実施したため、追い詰められた民間銀行の思惑からメガバンクが誕生しようとしています。だが、図体が大きくても収益が低いようでは金融再生につながらない。いま一度、これまでの銀行経営者の経営責任を明確にしたうえで、経営陣を一新し、銀行を再生させる。同時に、他業種からの参入を積極的に推進し、銀行業の多様化を認め(コンビニチェーンの銀行業進出などを容易にする)、向こう三年間で、金融再編を仕上げる。

二、雇用創造プロジェクト 金融再生にともない「産業再編」を引き起こすことになります。需給ギャップがGDPの一割とすれば、財閥ひとつ分ぐらいの企業群が不要になる計算です。新たな産業を興しつつ、国益として守るべき産業には、それなりに手当てをしたうえで、淘汰すべきは淘汰せざるを得ません。そのための雇用対策として、二十兆円レベルの資金を充てます。

三、科学技術アカデミー構想 どうしてカリフォルニアの片田舎に、シリコンバレーというベンチャー企業群が生まれたのか。その理由は、「大企業に勤める」ことがあまりに価値を持たなくなった社会性、リスクも大きいがリターンも大きく、挑戦を称賛する気質、産学が一体となった社会システムの有効性などが挙げられるでしょう。日本経済に求められているのは、これまでのような「企業」への投資ではなく、「人材」と「アイデア」への投資です。 大学やシンクタンクをつくる際には、建物中心に考えるのではなく、まず世界中から優秀な人材を招く。単に、既存業界のすき間を狙ってのものではなく、全く新しい技術やアイデアには、それが新しい企業体として発展できる仕組みを作る。

四、科学技術・国家プロジェクト計画 経済が八方塞がりの状況において、唯一、経済成長の変数を上昇させられるのは、新技術しかありません。たとえば、エネルギー分野では、私はかねてから太陽光などの新エネルギー、バイオなどを活用した食糧増産技術に注目してきました。 アメリカのアポロ計画がそうだったように、その広いプロジェクトは、基礎技術を充実させ、思わぬ波及効果も期待できます。さらに衛星通信の飛躍的発展がのぞめる以上、自前でロケットを打ち上げる技術は不可欠です。数兆円規模のプロジェクトを立ち上げるのは意義のあることだと考えています。

「日本銀行の独立性」を保て

そして、最後に、こうした産業政策とは別に、もう一つ重要なことがあります。 それは今後の金融政策の進め方です。言い換えれば、日本銀行の独立性の問題です。 先に述べたように、ここ数年の金融政策で、日銀はそのツケを一手に引き受ける形で、金融バルブを開け続けてきました。マネーサプライ(通貨供給量)を増加するなど人為的なかたちでの「調整インフレ論」が台頭する今、このままでは、国債の日銀引き受けをやらざるを得ない事態も予想されます(国債の日銀引き受けは、財政法第五条で禁止)。 たしかに、「調整インフレ」がうまくいけば、デフレ解消と景気回復と、ふたつながら夢のような果実が手に入るかのようですが、私もこの政策の可能性を探るためにできる限り調べてみましたが、古今東西、悪性インフレをコントロールできた国家は存在しません。人的なインフレを起こしても、本当の意味での経済再生はできないのです。実需を期待する形での経済成長(経済成長率二~三%)こそ、求めるべき姿のはずです。となれば、われわれは再び財政構造改革の原点に立ち戻って、赤字国債の発行を抑制すべきなのです。 政府が需要をつくる-公共事業をおこす-大量の赤字国債発行-日銀買いオペという悪循環を、どこかで断ち切らなければ、いつかは悪性のハイパーインフレが起こる。その時は、国家的な経済破綻です。年金生活者など高齢者たちは、ひとたまりもありません。 金融のバルブを開きっぱなしにしたのは、八〇年代後半に、バブル経済を招いた時とソックリそのままではないでしょうか。そのツケをいまだに払い続けいることを思えば、断じて同じ過ちを繰り返してはなりません。 インフレ防止。そのために中央銀行があり、日銀の独立性が認められているはずです。そのことに十分配慮すべきではないでしょうか。 もう、われわれに残された選択肢は少ないのです。 現在の小渕政権のように、目の前の難事にひたすらカネをつぎ込めば、「日本の景気は良くなる」と考えるのは、政策ではなく、神仏に祈るのと同じです。神頼みで、断じて政治はできません。政治家は、国民にとって、どんなに辛いことでも、今の時期の真実を率直に語ったうえで、断固たる政策を実行し、国民の信託を仰いでいくべきだと思います。

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