(1998年(平成10年)7月 記者会見で発表。)
序
鈍い音をたてながら崩れつつあるとしか思えない日本経済の再興策を思案しながら、最近、幕末の歴史を考えることが多くなった。私の曾祖父は過激な尊皇攘夷派だった水戸天狗党に参加し、敦賀で幕府に捕らえられて二十代前半の若さで死んだ。筑波で挙兵したわずか三百五十余名の志士が、至るところで各藩の正規兵を破り、敦賀にまでたどり着いたのも動乱の時代ならではの奇跡だったかもしれない。だが、考えてみれば不思議でもない。志士たちは、その思想が一〇〇%正しかったかどうかはともかく、日本の行く末に強烈な危機感を感じて命を顧みなかった若者の集団である。これを迎え撃った幕府や各藩の軍には、平穏無事を旨とした事なかれ主義が蔓延していた。勝敗はおのずと明らかであろう。天狗党は歴史のひとこまとして忘れ去られたが、歴史が確実に動いた。歴史を切り開くのは、危機感と使命感に基づくエネルギーであり、歴史の幕を引くのは万事、事なかれの無気力にほかなるまい。 現下の国難にあたり、日本の国中を支配しているのは、その危険が無気力状態のように思えてならない。日本の深刻な経済危機の本質は、いうまでもなく「金融不況」である。企業活動に血液を循環させる金融システムが機能不全に陥っている以上、これをこのまま放置すれば、日本経済全体が立ち行かなくなる。それを分かっていながら、その場任せにカンフル剤を打ち、総合経済対策という名の透析を施してお茶を濁してきたのが実態だ。黒船来航の際、「国論の調整がありますから来年まで待ってほしい」と、先延ばしを続けた幕府外交のようなもので、来年まで待っても、事態が悪くなることこそあれ、うまく処理する見通しなどがないのである。 幕末であれば、日本一国の問題と腹を括(くく)りさえすれば、まだ事足りた。今の日本は世界第二の経済大国であり、日本経済の崩壊は「日本発の世界不況」にも発展しかねない。欧米やアジアの各国が日本経済の再建を執拗に求めてくるのもこのためである。時には日本の文化、歴史やシステムそのものまでを否定するかの海外の論調に、不快感を持つ向きもあるかもしれない。しかし、われわれが本当のプライドをもつのであれば、諸外国の言い分にいちいち反駁するのでなく、自分たち自身の手で、今日の危機を克服することが必要だ。現在の円安、株安は、日本経済への「売り」であると同時に、日本の政治・経済・社会、つまり日本そのものへの不信の表れでもある。国際市場は、われわれが日本再建に向けた強い意志を持っているとみてくれてはいないのである。 これから日本人が歩むべき道は二つしかない。国全体が試練に耐えて新しい二十一世紀を創ろうとするか、その場任せでしのぐだけしのぎ、過去の遺産もプライドも捨てざるをえない状況を迎えるか、である。日本の二十一世紀は、言うまでもなく、二十一世紀を生きる世代の若者の手で創り、育んでいくべきものだ。ただ、膨大な負債を抱えたままで、新しい酒を作ることはできない。二十一世紀の酒を作る新しい皮袋は、天から自動的に与えられるものではなく、過去の負債を解消し、新しい財産を作ろうとする者に与えられるものである。二十世紀の最後に残った負債の解消とは、とりもなおさず巨額の不良債権を抱える金融システムの大手術と、誰も責任を取らないモラル・ハザード(倫理の欠如)の払拭だ。岐路を前にして躊躇している暇はなく、われわれはあえて試練の道を歩まねればならない。危機とは、本当の目の前にある時には気づかず、取り返しのつかない時期になって、「あの時がそうだったか」と思うものだ。その日本の危機は、いま目の前にある。これに打ち克つには国全体が一丸となって血を流さねばならず、日本にはそれができる潜在力がある。ここで私が、改めて日本興国のための経済政策を提示することにより、広く訴えたいのはこの一点に尽きている。
日本の危機
いきなり深刻な話から始めよう。日本の銀行百四十六行が抱える不良債権は、大蔵省の今年一月の発表によれば七十六兆円にのぼる。これは経済危機が国内暴動とスハルト長期政権の崩壊にまで発展したインドネシアの国内総生産(GDP)の二年半分に相当する。仮にこの半分が回収のメドの立たない債権であるとしても、日本の銀行は四十兆円近い損失をえ抱えていることになる。平成一〇年三月期の不良債権償却額の合計は上位十九行ペースで約十四兆円あるが、株価や地価など資産価格の持続的な下落、企業経営の行き詰まりなどによって不良債権がさらに拡大することを考えれば、実質的な償却は遅々として進んでいないのが実情だ。 金融システム再建の見通しがないまま、日本の銀行が次々に破たんすればどうなるか。まず、小康を保っているアジア各国の危機を再燃しかねない。そうなれば日本がアジアで有している膨大な債権も不良化し、日本は国内、アジアの二重の不良債権に苦しむことになる。さらには日本とアジアの混乱の悪循環が、世界不況の引き金になれば、日本が戦後五十年間にもわたって営々と築いてきた国際的な信用も財産も、一気に失うのである。
金融システム大手術
こうした危機の根本である金融システムの安定化のため、政府はすでに三十兆円の公的資金投入枠を設定した安定化策を実施した。ただ、私はこれまでもこの三十兆円の使い方こそ問題だと指摘してきた。現に銀行の自己資本増強用に注入した資金が、目に見えた効果を上げず、銀行の貸し渋りも続いている。泥水にいくら真水をつぎ込んでも飲料水にはならない。まず肝要なのは、浄水可能な水とそうでない水を厳然と判別し、可能な水に真水を注いで飲料水になるまで純度を高めることだ。これが、不良債権の厳格な審査、徹底したディスクロージャーの意味である。 そのうえで、私は不良債権額を三種類(回収懸念、回収に重大懸念、回収不能)に分けて確定し、全銀行に強制的な引き当て(損失に備え不良債権額相当の貸し倒れ引当金を計上させる)を実施させるべきだと提言してきた。これによって不良債権の実態と、各銀行の経営状況が初めて明確になるのである。 なぜ、こうしたことができないのかといえば、結論的には政治、行政、金融界の「決断力の欠如」というほかないが、以下のような手前勝手な論理がを利かせているからだ。 一、経営の完全透明化は、債務超過によって事実上、すでに破綻している銀行の処理につながる。銀行の倒産というハードランディングは、国内のパニックを誘発し、地域経済、関連企業にも重大な打撃を与える。
二、破綻銀行の処理、すなわちブリッジバンクへの移行に際しては、銀行破綻に至らしめた経営者の責任問題が不可避となる。しかし、バブル時代が「皆」が悪かったのであって、特定の「個人」が悪かったのではない。 三、不良債権は銀行にとどまらず、多様な業種に広がっており、この分類を査定、格付けする膨大な数の専門家が要る。技術的に不可能だ。
これこそ「何もしない」という最大の犯罪を正当化しようとする論理である。私はこのような論理に対して、次のような提言をしたい。
(一) まず金融機関の破綻による大混乱を防止するため、三つの安全装置(セーフティーネット)を創設する。その第一は、新規産業の創設と必要な失業なき円滑な労働移動支援によって、三年間で一〇〇万人の雇用を作る「一〇〇万人雇用創出計画」だ。現在の主な雇用対策は、失業保険と雇用安定事業(雇用調整助成金)しかない。金融システムの大手術には概ね三年を要するとみて、幅広い業種の破綻企業やリストラ企業からの離職者を雇用した事業主に対し、賃金などを助成する新たな労働移動雇用安定助成金制度を作るのである。 二番目は三十兆円の貸し渋り対策だ。銀行の貸し渋りは、経済活動の活性化にとって今でも深刻な問題だが、不良債権処理を実施しながら貸し渋りを解消するのはなかなか難しい。貸し渋りによって健全な企業が危機に陥るのは、道義的に許されないばかりでなく、日本の最も重要な財産である優秀な中小・中堅企業を失うことになる。これを回避するため、金融環境変化対応後特別貸付、中小企業運転資金円滑化貸付、信用補充などの制度を充実するとともに、政府系金融機関の貸付規模を拡大し、総額三十兆円の対策を講じる。
三つ目は、中小企業の連鎖倒産を防止する措置である。具体的には現行の倒産関連保証制度と倒産防止共済制度の抜本的改革、政府系金融機関の倒産貸付制度の拡充などが考えられる。倒産関連保証の保険上限を撤廃、共済防止共済の融資額を二十倍に引き上げ、政府系金融機関の貸付限度額も上限拡大・据置期間の延長を実施するなど、あらゆる措置をとるのである。肝心なのは、国が不良債権を処理しても、「健全で善良な企業は絶対、潰さない」という断固とした決意を示し、国民と企業の信任を得ることだ。
(二) バブル崩壊の責任が銀行経営者に問えないとする論理に至っては言語道断である。徹底したディスクロージャーによって経営実態が明らかになり、公的資金の投入によって再生可能な銀行には、優先株の買い取りなど資本注入が必要になる。血税を使う以上、経営責任を問うのは当然であり、あらゆる形の責任逃れは許すべきではない。
(三) 不良債権の査定が物理的にできないという議論は本末転倒である。確かに金融審査の専門家が不足してるのは明白だ。米国の批判を待つまでもなく、これもバブル崩壊以降の無作為の害の典型といえる。しかし、今さら悔やんでも始まらず、事態は急を要している。預金保険機構に限定せず、全国のあらゆる人材を結集した、いわば国営のアナリスト集団を結成するのが焦眉の急である。また、民間の貸し付け機関を活用する方法も考えられる。
これらの措置を総合し、三年間にわたる「日本経済緊急事態宣言」をしなければならない。財政構造改革法の運用も三年間は停止する。その初めの二年以内に金融システムの大手術を終え、日本経済が再び攻めに転じるバイタリティーをもって二十一世紀を迎えられるかどうかが、日本という国家にとっての天王山だ。失敗すれば、五十年前の日本人がささやかに抱いたように「小さく平和な文化国家」として生きる、別の道を探らねばならない。しかし、世界第二位の経済大国になった今の日本にとって、実はそれさえ不可能なのである。日本経済が縮小し、日本が二流国に転落することは、取りも直さず世界経済の縮小を意味する。アジアを中心に地域の不安定は増大し、微妙に保たれている安全保障体制も揺るがざるを得ない。日本経済の再生は、日本自身のためのみならず、国際社会に対する最大の責務であることを、強く意識しなければなるまい。
二十一世紀に向けて
金融システムの大手術は、いってみれば過去の負債を解消する後ろ向きの努力である。健全な金融システムなしに日本経済の再生は成り立たないが、金融システムだけで二十一世紀の日本が生きていけるわけではない。二十一世紀の日本経済は、どうあるべきであり、日本はどう生きていくのかという、きわめて明瞭なビジョンが必要だ。私は、金融を経済の生命線、先端産業・ソフト産業を防衛線、製造業を戦略ラインと位置付けて、中長期的な国家像を形成することを提唱したい。かみ砕いて言えば、少なくとも国内的には健全、盤石の金融システムの基盤に立った「モノ作り国家」である。私は、この「モノ作り」を基盤とする「新産業立国」を提案したい。 最近、モノ作りはもう古い、カネがカネを生むマネー国家や先端技術、知的所有権で大きな付加価値を得るソフト国家こそ、二十一世紀に一級国だと見る風潮がある。私は、これは常識の陥穽だと思う。戦後の日本を一貫してリードし、バブル崩壊後も支えているのは日本のモノ作りであり、アジアの成長も欧米の金融社会も、この上に成り立っているのである。強固な製造業があってこそ、先端技術もソフト技術も生まれる。この原点にもう一度戻って、新たな経済戦略を構築することが重要である。
(一) まず、生命線であるべき金融から論じたい。不良債権の処理さえ終えれば、ここで生き残った日本の銀行は、それなりの国際競争力を維持できるかもしれない。ただ、それは各行が護送船団時代の甘えから脱却してこその話しだ。 日本の銀行は企業や個人に資金を貸し付ける利息中心の収益構造になっているのに対し、米国はデリバティブなどの非利息商品を経営の中心としているわけだ。現状だけでどちらのを経営スタイルが優れているとは言い難い部分もある。ただ、日本の預金金利には、まだ引き上げ余地があるといえる。死に物狂いで不良債権の処理に取り組んでもらわなければならない銀行に、その体力がないとしたら、体力のあるところにその業務を開放することも一考である。企業には、使われないまま眠っている多額の内部資金がある。企業が銀行のように金融の総合商品を扱うのは難しいが、特定の分野では米国並みの調達コストでも十分利用できる体力があり、これによる資金の循環が日本経済の活性化材料になりうるのである。
(二) 日本は戦後、一貫した「モノ作り国家」であることを基本に発展してきた。資源もなく、国土も狭い国が、優秀な人材と英知を結集して、良質な製品を生み出す-。これこそ、資源がないという短所を長所に転換した成功例だった。ここから得た教訓は、「持たざる者」は、決して悪いことばかりではないということである。戦後日本は軍事力を持たなかったがゆえに、平和国家として繁栄できたのであり、そもそもゼロからの出発だったからこそ、何事にも柔軟に対応できたのだ。ところが今や、日本人は「持てる者」であることを前提とするために、大胆な改革ができないでいる。 だからこそ、「製造業はもう古い」という発想を転換すべきである。欧米流のマネーゲームやソフト産業で遅れをとっているからこそ、優秀な人材と活力がメーカーに残っているのであり、モノ作りこそ日本の基幹産業だという自負を持つべきだ。現に、これだけの不良債権を支えながら日本経済が立ち行くのも、莫大な貿易黒字によって富をもたらしているからであり、その貿易黒字の六〇%あまりを自動車、電機、機械の三業種が稼ぎ出しているのである。 半面、深刻なのは、こうした製造業の海外移転による国内の空洞化と、新たな産業の創造意欲だ。製造業の空洞化を招き、これから企業を起こそうとする起業家の意欲を著しくそいでいる原因の一つは、主要先進国と比較して高い水準にある法人税と法人事業税、そして所得税・住民税の累進構造である。法人事業税の引き下げや恒久的な所得減税の実施は、この観点からも不可欠と見なければならない。 同時に日本の企業の銀行依存度がアメリカに比べて高いことも、金融危機を産業界全体の危機に波及させている。先に指摘したように、利息収入を基本とする日本の銀行が、「預金」の形で企業から資金を集め、これを「貸し出し」として企業に供給するメイン・バンクシステムが、この元凶だ。すでにこのシステムは崩壊の過程にある。有力企業については社債の発行などで、市場から直接、資金を集めるため、また、中小企業については内部留保を厚くするため、抜本的な税制改革、政策支援が必要だ。
(三) 先端技術・ソフト産業を「防衛線」であると指摘した。電子マネー、遺伝子関連をはじめ先端分野における日本の特許取得は、それほど出遅れている。過去一〇年間の研究開発成果に関する特許の輸出入、いわれる技術貿易収支を日米で比較すると、米国が一七・五兆円の黒字なのに対し、日本は四・一兆円の赤字だ。これは今後、さらに拡大する公算が大きいのみならず、国内産業の競争力後退、新産業の台頭阻害といった重大な問題を引き起こしかねない。特許が国全体の財産であるのみならず、特許を生み出す人材、産み出そうとする意欲も、また国の財産であるという明確な価値観をもつべきだ。企業の研究者が画期的な発明や商品化に成功すれば、正当な報酬を得ることを国は税制を含めて奨励すべきである。さらには特許によるライセンス収入や譲渡収入を増大させるため、株式市場のような「特許市場」を創設することを目標としたい。
政治と国民の意志
日本経済再生は、膿を取り除き、健全な部分を発展させる道であり、当然、複雑な経済のポリシーミックスが必要となる。ただ、究極的には、政治と国民が経済再生への強い決意を示して、その意志に対する内外の信頼を獲得できるかどうかが問題だ。 深刻な問題の一つである少子化ひとつを例にとってもいい。今までの日本は人口が年間一〇〇万人ずつ増え、これは一%の増加であり、これからは年間五〇万人が減り、マイナス〇・五%、このままでは二〇五〇年に一億人を割る。それだけで一・五%ものデフレ要因になるのである。過大に重い税負担、高齢社会への不安、子供を抱えた女性が社会進出できる環境の未整備、急増する教育費--。どれをとっても少子化が進む要因ばかりだ。将来に対する不安を取り除き、子供を産み育てるための社会環境を整えなければ、この傾向はますます増幅する。ここでも政治の強い意思を明らかにし、国民の納得を得ることで初めて展望が開けるのである。 その肝心の政治は、えてして聞き心地のいい「公約」を用い、本質的な問題を覆い隠してきた。今、政治家が訴えるべきは、日本の将来への確信と、そのために全国民が試練の道を歩まねばならないという決意である。私は「斃れて後已む(たおれてのちやむ)」の気概で全精力を傾注し、次の世代の人たちのために、事を起こさなければならないと覚悟した。日本の危機は今、ここにあり、日本人がプライド持って生きて行かねばならない二十一世紀は、すぐそこまで来ているのである。